sora.Fのブログ

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僕の趣味は「意表をつくこと」です

僕たちは、大学生になった。

僕たちは、「プリント」を「レジュメ」と呼ぶようになり、タピオカに依存するようになり、どこにも需要のないストーリーを頻繁にアップするようになった

 

そして、

僕たちの「遊び」はいつの間にかお酒が必須条件になっていた

 

 

ビール、カクテル、ハイボール、チューハイ、梅酒。

 

 

 

僕たちは、成長するにつれて「遊び」を忘れていく。

 

 

目的を持たず純粋に行為そのものを楽しむ「遊び」に対して、大人が行うのは、所詮何かしらの目的を有した「趣味」である

 

 

ゴールを意識した趣味はいらない。僕はただ、純粋な遊びを楽しみたい。昔のように、まっさらな心で鬼ごっこがしたい。色オニ、増えオニ、高オニ、レオ・レオニ。お酒を飲みながらの雑談も確かに面白い。けれど、鬼ごっこで汗を流した後、地面にへたり込みながら交わす会話の方がよっぽど楽しいし、美しい

 

 

本当に楽しい遊びって何だ?自問自答を繰り返す中で、僕は新たな遊び、すなわち目的を持たない趣味を見つけた。それは「意表をつくこと」だ

 

 

 

「趣味が『意表をつくこと』である」ということが、読者にとってはまず「意表」であるかもしれない。しかし、僕の趣味「意表をつくこと」を意表たらしめているものはその発表自体の意表性ではなく、意表をつく行為の意表性、すなわち内容の意表それ自体の意表性である。何を言ってるのか分からない?俺もだ

 

 

 

言葉でグダグダと説明しても仕方ないだろう

僕のスーパーにおける実践を通じて、具体的に理解してもらいたい

 

 

 

 

「スーパーマーケット」は、別名アイテムの宝庫とも呼ばれ、初心者が意表をつくフィールドとして最適だ

その中でも今回は「じゃがりこ」と「さけるチーズ」というアイテムを用いて意表をついて行こうと思う

 

 

 

 

 

 

まず、買い物カゴに「じゃがりこ」と「さけるチーズ」を入れる

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そしてレジに並ぶ

 

 

するとどうだろうか。レジ担当の店員は「出た出たwじゃがアリゴw」と思うに違いない。思わずミーハーを蔑む笑いが顔に出てしまうだろう

 

 

知らない人のために説明しておくと「じゃがアリゴ」とは、「じゃがりこ」と「さけるチーズ」によって作られる、一時期Twitterで話題となった食べ物である。これが非常に美味であり、日本人の主食は米からじゃがアリゴに変移していくのではないかと危惧されるほどである

 

Twitterでバズりにバズった後、じゃがりことさけるチーズのコンビは全国のスーパーで飛ぶように売れた

 

この店員も恐らく何億ものじゃがりこ及びさけるチーズのバーコードを読み取ってきたはずだ。じゃがりこのよく分からんバーコード加工に殺意を覚えた時代もあっただろう。もしくは、パッケージの「食べだしたらキリンがない。」というクソつまらんダジャレに涙を流した夜もあっただろう

 

彼らは膨大な量のじゃがりこ、さけるチーズと共に平成最後の1年を駆け抜けたのだ。彼らのレジバイト生活からじゃがりことさけるチーズを除くと何が残るだろうか。率直に言おう。何も残らない

彼らのアルバイトとはすなわち、じゃがりことさけるチーズそのものなのである

 

彼らは恐らく就職面接における「学生時代はどのようなアルバイトをしていましたか?」という問いに対して「はい、じゃがりことさけるチーズです」と答えるだろう。答えるに違いない

 

もしくは、哲学批判だ

ハンナ・アーレントは人間の活動を大きく3つ、すなわち「労働」「仕事」「活動」に分類した。そして、「労働」が「仕事」「活動」を圧迫する近代社会を批判した。そんなアーレント哲学に対して京都の学生アルバイトが提示したのは第4の選択肢である。「じゃがりことさけるチーズ」

 

「労働」「仕事」「活動」「じゃがりことさけるチーズ」。

 

彼が労働の代替として打診したじゃがりことさけるチーズは、アーレント哲学を昇華させ、革新的な労働哲学を生み出すこととなった

 

彼は恐らく就職面接における「学生時代は何を学びましたか?」という問いに対して「はい、じゃがりことさけるチーズです」と答えるだろう。答えるに違いない

 

 

いずれにせよ、じゃがりことさけるチーズの大波に揉まれた彼らが、このコンビを購入する消費者に対して『じゃがアリゴミーハー野郎』のレッテルを貼ってしまうのも何ら不自然なことではない。もはや彼らに意思はない。脊髄反射の領域だ。

 

 

そのようなじゃがアリゴの眼差しを全身に浴びながら、僕は会計を済ませ、帰宅する

 

 

 

そして、

 

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別々に食べる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

じゃがアリゴを

 

 

 

 

作らない

 

 

 

 

 

 

 

 

鬼畜

 

 

 

 

鬼畜の所業

     

 

 

レジ店員の苦悩を、汗と涙の結晶を、嘲笑うかのような所業

 

 

 

 

 

「じゃがアリゴミーハー野郎」と他人にラベリングすることで自己の崩壊を防ぐ。これが学生アルバイトが導き出したひとつの結論である。

 

そして僕は、彼らの脆弱性を理解しつつ、ラベリングという行為を直接否定することはしない。帰宅後、密かに意表をつく。

 

 

 

学生アルバイトが必死に模索し、辿り着いたひとつの解答

 

私はそれを、全否定する。それも、水面下で。

 

 

 

なんという無慈悲

 

救いようのなさ

 

 

 

大体、第4の選択肢が「じゃがりことさけるチーズ」な訳ないだろう。哲学を舐めるな。そもそもアルバイトの分際で労働哲学を語るな

 

 

 

そして、「意表の鬼」とも称される僕の意表づきはここで終わらない。この程度の意表のつき方ではまだ「遜色のない」というレベルだ。要するにこの段階ではまだ色オニであると、そう言える

 

 

僕はさらに、

 

 

さけるチーズを

 

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さかずに食べる。

 

  

 

 

 

 

 

──さけるチーズは「さける」という特性を全面的にアピールした製品である。その裏には発案者のアイデアがあり、それを基にした綿密なマーケティングがあり、巧妙なパッケージデザインがある

 

 

それでも僕は、さけるチーズをさかずに食べる

 

 

 

 

──さけるチーズを支えるのは繁雑な製造方法である。モッツァレラを引っ張り、折り畳み、湯につけるという作業を数回繰り返した後、棒状に引っ張って冷水に浸す。これを乾燥させることでさけるチーズは出来上がる。要するに、以上の複雑な製造ラインを経てはじめて、さけるチーズは繊維状にさけるようになる

 

 

それでも僕は、さけるチーズをさかずに食べる

 

 

 

メーカーがさけるために費やした、血の滲むような努力を全て無視して僕は、さけるチーズをさかずに食べる

 

 

 

 

こうして自らのアイデンティティを否定された「さけるチーズ」はもはやただの「チーズ」に成り下がってしまった。スーパーの乳製品コーナーという狭い狭い一角で、恐らく他のチーズ製品に対し「俺はお前らとは違うんだ」という傲慢な態度を取っていたであろうさけるチーズ。しかし僕の前では無力。井の中の蛙もとい乳製品コーナーのさけるチーズは、大海を思い知ったのだ。このように僕は、店員だけでなくさけるチーズそれ自体にも意表をついていく。

 

 

 

 

そして最後に

 

僕は、

じゃがりこ

 

 

 

 

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底から開ける。

 

 

 

営業

販売

マーケティング

広報

商品開発

生産技術

菓子メーカー

原材料メーカー

小売業者

商社

パッケージメーカー

広告会社

消費者

 

 

 

 

じゃがりこに携わる全ての者が想定しなかったであろう

 

 

 

 

 

意表

 

 

 

 

 

 

意表を超えて

 

 

 

 

 

 

 

崇高

 

 

 

 

 

 

 

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黄金比

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神の領域

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一般人からすると、僕はただじゃがりこを逆から開けた変人だと、そう目に映るだろう

 

エスも最初はそうだった。同じユダヤ教パリサイ派サドカイ派から否定され、危険視され、ついには処刑された

 

しかし、現在彼の教えは世界最大宗教にまで成長し、信者人口は24億人を超えることとなった

 

 

僕が行っているのは、単なる奇を衒う行為、意表づきではない。「神との接触」それである。

 

 

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歴代のパッケージを背に佇むじゃがりこ。過去との決別とでも言おうか。まるで宗教画である。

 

 

今は理解されなくとも構わない。1000年後には恐らく全人類の98パーセントが意表教を信仰していると、そう断言しよう。

 

 

 

 

恐るべし意表の鬼才。僕は増進し、限りない意表の高みを目指す鬼、まさに「増えオニ」であり「高オニ」だ。

 

 

 

つまるところ僕は色オニであり、増えオニであり、高オニである。すなわち、僕とは遊びそのものである。

 

 

加えて、趣味と遊びには本質的な違いはないとされる。

要するに僕は趣味そのものである。

 

 

さらに言おう。

1938年、歴史学者ヨハン・ホイジンガは、自らの著書『ホモ・ルーデンス』において人間を「ホモ・ルーデンス=遊ぶ人」であると定義づけた。前述のように僕は遊びである。よってこの命題から、僕は人類そのものであると、そう言える

 

 

僕はおそらく、就職面接における「趣味はなんですか?」という問いに対して「はい、福山空、私自身です」と答えるだろう。また、こうも答えるだろう。「同時に、遊びとは福山空、私自身です。」と。

 

そして最後にこう付け加えるだろう

 

 

 

「全ての人類は福山空、私自身です。」

 

 

 

僕は就職に失敗するだろう。失敗するに違いない