明治アポロに畏怖する
京都市は左京区、鴨川デルタのちょうど真東に位置する出町柳駅で、YouTubeの動画広告を真剣に眺める男がいる。愉快で楽しい児童向けのお菓子CMを仏頂面で眺める男がいる
何を隠そう、この僕である
「CMを自分で選択し、比較し、分析する」という中間レポートの存在を完全に忘れていた僕は、全神経を15秒のCMに集中させていた。時刻は19時15分。レポートの提出期限は、23時59分だ。間に合うか? いや、間に合わないだろう
何故なら僕はこのまま電車に乗らなければならないし、その電車が向かうのはバイト先である祇園のバーだからだ。バーでアルバイトをしていると言えば、相手の反応は決まってこうだ
「え〜おしゃれ〜!」
「すご〜い!」
「かっこいい〜!」
多分みんなが想像しているのは、目を瞑りながら華麗な手つきでにシェイカーをシャカシャカする、バーテンダーの佇まいだろう
しかし残念ながら僕の持ち場はキッチンであり、狂ったように6時間ピザを作り続けるというのが僕の仕事内容である
バーテンダーなんて、もはや別の銀河系の話だ。ドリンクに触れることすらないし、さらに言えば「シェイカー」という名称すら知らなかった。この偏差値の低い検索履歴を見れば一目瞭然だろう
一生ピザを作ることと、中間レポートを提出することとを比べたらどちらが重要か。明らかに中間レポートだろう。猿でも分かるし、何ならプランクトンでも分かる
しかし、これまでのブログで数回触れてきたが、うちのバーの経営者はヤク○ザだ。当日に休み連絡をしようものなら、次にみんなに会うとき僕はピッツァになっているだろう
つまり、出勤という手札しか僕には残されていない。完全にジョーカーだが、ジューサーでピザソースにされるよりはまだマシだろう
さらに不幸なことに、シフトは19時半から23時半までである。バイト後全力で駅まで走り、電車の中で全ての分析を終わらせ、全力疾走で帰宅したとしても時刻は23時57分。パソコンの起動にかかる時間やワードを立ち上げる時間、提出用のサイトを開く時間を考慮するとタイムリミットは30秒。この間に2000字を打って提出しなければならない。もはやスパコンである。もう9億パーセント間に合わない
とはいえ、ピッツァになって霊柩車でデリバリーされるのはゴメンだ。遺体と対面した遺族に「綺麗な死に顔...いや死にピザね」と言われるのだろう。それだけは絶対に避けたい。プランクトンでも分かるだろう。火葬した時にこんがり焼き上がるなんて、完全に御法度だ。 ピザハットだけにね
しかし、僕は突然YouTubeを閉じたかと思うと、メモアプリを立ち上げ、人類とは思えない速さで文字の入力を始めた。僅かに生じた畏怖の念が、目前に忽然と立ち現れ、蠱惑的な眼差しで私を泥梨に引きずり込もうとしてきたからだ。征服から逃れようと無我夢中で文字を打ち込む。それはさながらスパコンのような速度で。
何を恐れているか
それは
「アポロ」だ。
食い入るように見つめ、解析していた「アポロ」の動画広告は、私たちが信じて疑わない常識の否定を、密かに我々に示していた
僕は
僕はただ、ただぼんやりと動画広告を見つめていた
衝撃が走った。
このお菓子は
捏造だと、
アポロ11号の月面上陸が捏造であったと、そう示しているのではないか
そんなことあるはずがない
そう思った読者もいるだろう
しかし残念なことに、私たちの世界は嘘で満ち満ちているというのが実態である
私がしばしば観ていたクイズ番組によく出演していた、若槻千夏という女性タレントがいる
彼女は今、自身のアパレルブランド「WC」(トイレ感が否めない)を展開するなどして活躍しているが、私が彼女に関して特に印象に残っているのは、そのクイズ番組で披露したピアノの腕前である。それはそれは美しく、心地よい旋律であった。
そして何よりも、「若槻千夏」という名前の美しい響きに心地良さを感じた私は、いつの間にか彼女に対してかなりの親近感を抱き、信頼を寄せていた
しかし、現実は残酷だ
彼女の本名は「栗原千春」である。
これを知ったのは、小学生の時だ
嘘ばかりついていたということから「嘘つき」と語感の似た「若槻」、そして夏が好きだから本名をもじって「千夏」にしたというのが芸名の由来である
千春
千夏ではななかったのか
気に入っていた「若槻千夏」の語感が偽りのものであり、しかも「嘘つき」に由来するのだと知り、当時の僕は相当なショックを受けた。信じられなかった。中学時代は卓球部に所属していた、という彼女のウソみたいな事実も全部霞んで見えた
このように、私たちが生きる世界は「若槻千夏の本名」という究極にどうでもいいことまでもが、嘘で塗り固められている
私たちが生きているのは、嘘が氾濫する社会であると、そう言っても過言ではない
そしてアポロは、
アポロ11号をモチーフとして生まれた明治アポロは、
月面着陸という「虚構」を我々に訴えるお菓子なのである
アポロ11号が月面着陸に成功したとされるのは1969年
そしてそれに先駆けた1966年、明治は、ギリシャ神話の予言の神であるアポロンから、「アポロ」を商標登録した
しかし、ここで疑問が残る
何故、月面着陸よりも先に商標登録を行ったのか
何故、「アポロ11号」ではなく、ギリシャ神話の「予言の神アポロン」を名前の由来としたのか
そうか
そういうことなのか
アポロ計画は神話のような崇高な「作り話」であると、そう言うのか
そして、アポロの生産者はそれを月面着陸の3年前にまさに「予言」していたと、そう言うのか
それだけではない
「アポロちゃん」というウサギのキャラクター
これは、
月の表層にウサギを見出して喜ぶ私たちを、
すなわち
物事の表面しか見ていない私たち人類を、
揶揄しているものなのか
どういうことだ
アポロ
説明しろ
焦燥感に駆られた私は、アポロの製品ページに飛んだ
なんと
なんということだ
「手作りアポロ」
アポロ計画は人の手が加わった偽造工作、捏造であると
やはりそう示唆しているのか
じゃあ誰だ
裏でこの陰謀を操っていたのは
誰なんだ
しばらく調査していると、同じく、ウサギをマスコットとする企業を発見した
ピンと来ないかもしれないが、この製薬会社はアレジオンやハイチオール、エスタック、EVEクイック頭痛役を製造販売している、国内主要医薬品メーカーである
そしてそのエスエス製薬がマスコットのモチーフとしたのは、「因幡の白兎」という日本神話である
因幡の白兎のストーリーは以下の通りだ。
淤岐島から因幡国へ行くため、ウサギは鰐鮫に嘘をついてその背を渡ったが、最後の鰐鮫にその嘘がバレて皮を剥がれた。痛みにもがくウサギは八十神の嘘の教えを信じて潮を浴び、さらに走る激痛に泣いていたが、ちょうどそこで大国主命に救われる
嘘
嘘
嘘
やはり嘘にまみれたストーリーである。
それだけではない
1967年に考案されたエスエス製薬の4代目「シェイクハンドピョンちゃん」は、ロケットをモチーフにしており、背景にあるのは明らかにアポロ計画そのものである
なぜ4代目にして初めて、ウサギを月と関連させたのか
4と月から浮かび上がるもの
そう
ピアノを弾く主人公の物語
嘘
全てが嘘と繋がっている
そして
マスコットキャラを通じて
物事の本質を見抜けない私たちを嘲笑っていた
いや
いや、違う
違う
私たちはまだ、核心にはたどり着いていない
思い出せ
4代目ピョンちゃんを
『四月は君の嘘』を
S S
シェイクハンドピョンちゃん
ピアノ
まだ分からないのか
すなわち、
春 → 夏
卓球部
特技 ピアノ
そう
そして彼女のブログのホーム画面は
「ウサギ」
いや
まだだ
まだ終わらない
思い出せ
アポロの動画広告を
出演していた女性を
もうお分かりだろう
「嘘つき」
そう
捏造の黒幕
アポロ計画捏造の黒幕
それは、若槻千夏だったのである
この広告は
若槻千夏がアポロを操る描写を含むこの広告は
アポロ計画を裏で操る首謀者を、密かに我々に示した、イデオロギー広告であったのだ
さて
ここまで解明してしまったので
私は近いうちに巨大な圧力によって粛清されてしまうだろう
若槻千夏へ
最後に一言だけ言わせてほしい
水に流してくれませんか?
(WCだけに)
僕の趣味は「意表をつくこと」です
僕たちは、大学生になった。
僕たちは、「プリント」を「レジュメ」と呼ぶようになり、タピオカに依存するようになり、どこにも需要のないストーリーを頻繁にアップするようになった
そして、
僕たちの「遊び」はいつの間にかお酒が必須条件になっていた
ビール、カクテル、ハイボール、チューハイ、梅酒。
僕たちは、成長するにつれて「遊び」を忘れていく。
目的を持たず純粋に行為そのものを楽しむ「遊び」に対して、大人が行うのは、所詮何かしらの目的を有した「趣味」である
ゴールを意識した趣味はいらない。僕はただ、純粋な遊びを楽しみたい。昔のように、まっさらな心で鬼ごっこがしたい。色オニ、増えオニ、高オニ、レオ・レオニ。お酒を飲みながらの雑談も確かに面白い。けれど、鬼ごっこで汗を流した後、地面にへたり込みながら交わす会話の方がよっぽど楽しいし、美しい
本当に楽しい遊びって何だ?自問自答を繰り返す中で、僕は新たな遊び、すなわち目的を持たない趣味を見つけた。それは「意表をつくこと」だ
「趣味が『意表をつくこと』である」ということが、読者にとってはまず「意表」であるかもしれない。しかし、僕の趣味「意表をつくこと」を意表たらしめているものはその発表自体の意表性ではなく、意表をつく行為の意表性、すなわち内容の意表それ自体の意表性である。何を言ってるのか分からない?俺もだ
言葉でグダグダと説明しても仕方ないだろう
僕のスーパーにおける実践を通じて、具体的に理解してもらいたい
「スーパーマーケット」は、別名アイテムの宝庫とも呼ばれ、初心者が意表をつくフィールドとして最適だ
その中でも今回は「じゃがりこ」と「さけるチーズ」というアイテムを用いて意表をついて行こうと思う
まず、買い物カゴに「じゃがりこ」と「さけるチーズ」を入れる
そしてレジに並ぶ
するとどうだろうか。レジ担当の店員は「出た出たwじゃがアリゴw」と思うに違いない。思わずミーハーを蔑む笑いが顔に出てしまうだろう
知らない人のために説明しておくと「じゃがアリゴ」とは、「じゃがりこ」と「さけるチーズ」によって作られる、一時期Twitterで話題となった食べ物である。これが非常に美味であり、日本人の主食は米からじゃがアリゴに変移していくのではないかと危惧されるほどである
Twitterでバズりにバズった後、じゃがりことさけるチーズのコンビは全国のスーパーで飛ぶように売れた
この店員も恐らく何億ものじゃがりこ及びさけるチーズのバーコードを読み取ってきたはずだ。じゃがりこのよく分からんバーコード加工に殺意を覚えた時代もあっただろう。もしくは、パッケージの「食べだしたらキリンがない。」というクソつまらんダジャレに涙を流した夜もあっただろう
彼らは膨大な量のじゃがりこ、さけるチーズと共に平成最後の1年を駆け抜けたのだ。彼らのレジバイト生活からじゃがりことさけるチーズを除くと何が残るだろうか。率直に言おう。何も残らない
彼らのアルバイトとはすなわち、じゃがりことさけるチーズそのものなのである
彼らは恐らく就職面接における「学生時代はどのようなアルバイトをしていましたか?」という問いに対して「はい、じゃがりことさけるチーズです」と答えるだろう。答えるに違いない
もしくは、哲学批判だ
ハンナ・アーレントは人間の活動を大きく3つ、すなわち「労働」「仕事」「活動」に分類した。そして、「労働」が「仕事」「活動」を圧迫する近代社会を批判した。そんなアーレント哲学に対して京都の学生アルバイトが提示したのは第4の選択肢である。「じゃがりことさけるチーズ」
「労働」「仕事」「活動」「じゃがりことさけるチーズ」。
彼が労働の代替として打診したじゃがりことさけるチーズは、アーレント哲学を昇華させ、革新的な労働哲学を生み出すこととなった
彼は恐らく就職面接における「学生時代は何を学びましたか?」という問いに対して「はい、じゃがりことさけるチーズです」と答えるだろう。答えるに違いない
いずれにせよ、じゃがりことさけるチーズの大波に揉まれた彼らが、このコンビを購入する消費者に対して『じゃがアリゴミーハー野郎』のレッテルを貼ってしまうのも何ら不自然なことではない。もはや彼らに意思はない。脊髄反射の領域だ。
そのようなじゃがアリゴの眼差しを全身に浴びながら、僕は会計を済ませ、帰宅する
そして、
別々に食べる。
じゃがアリゴを
作らない
鬼畜
鬼畜の所業
レジ店員の苦悩を、汗と涙の結晶を、嘲笑うかのような所業
「じゃがアリゴミーハー野郎」と他人にラベリングすることで自己の崩壊を防ぐ。これが学生アルバイトが導き出したひとつの結論である。
そして僕は、彼らの脆弱性を理解しつつ、ラベリングという行為を直接否定することはしない。帰宅後、密かに意表をつく。
学生アルバイトが必死に模索し、辿り着いたひとつの解答
私はそれを、全否定する。それも、水面下で。
なんという無慈悲
救いようのなさ
大体、第4の選択肢が「じゃがりことさけるチーズ」な訳ないだろう。哲学を舐めるな。そもそもアルバイトの分際で労働哲学を語るな
そして、「意表の鬼」とも称される僕の意表づきはここで終わらない。この程度の意表のつき方ではまだ「遜色のない」というレベルだ。要するにこの段階ではまだ色オニであると、そう言える
僕はさらに、
さけるチーズを
さかずに食べる。
──さけるチーズは「さける」という特性を全面的にアピールした製品である。その裏には発案者のアイデアがあり、それを基にした綿密なマーケティングがあり、巧妙なパッケージデザインがある
それでも僕は、さけるチーズをさかずに食べる
──さけるチーズを支えるのは繁雑な製造方法である。モッツァレラを引っ張り、折り畳み、湯につけるという作業を数回繰り返した後、棒状に引っ張って冷水に浸す。これを乾燥させることでさけるチーズは出来上がる。要するに、以上の複雑な製造ラインを経てはじめて、さけるチーズは繊維状にさけるようになる
それでも僕は、さけるチーズをさかずに食べる
メーカーがさけるために費やした、血の滲むような努力を全て無視して僕は、さけるチーズをさかずに食べる
こうして自らのアイデンティティを否定された「さけるチーズ」はもはやただの「チーズ」に成り下がってしまった。スーパーの乳製品コーナーという狭い狭い一角で、恐らく他のチーズ製品に対し「俺はお前らとは違うんだ」という傲慢な態度を取っていたであろうさけるチーズ。しかし僕の前では無力。井の中の蛙もとい乳製品コーナーのさけるチーズは、大海を思い知ったのだ。このように僕は、店員だけでなくさけるチーズそれ自体にも意表をついていく。
そして最後に
僕は、
底から開ける。
営業
販売
広報
商品開発
生産技術
菓子メーカー
原材料メーカー
小売業者
商社
パッケージメーカー
広告会社
消費者
じゃがりこに携わる全ての者が想定しなかったであろう
意表
意表を超えて
崇高
神
神の領域
一般人からすると、僕はただじゃがりこを逆から開けた変人だと、そう目に映るだろう
イエスも最初はそうだった。同じユダヤ教のパリサイ派やサドカイ派から否定され、危険視され、ついには処刑された
しかし、現在彼の教えは世界最大宗教にまで成長し、信者人口は24億人を超えることとなった
僕が行っているのは、単なる奇を衒う行為、意表づきではない。「神との接触」それである。
歴代のパッケージを背に佇むじゃがりこ。過去との決別とでも言おうか。まるで宗教画である。
今は理解されなくとも構わない。1000年後には恐らく全人類の98パーセントが意表教を信仰していると、そう断言しよう。
恐るべし意表の鬼才。僕は増進し、限りない意表の高みを目指す鬼、まさに「増えオニ」であり「高オニ」だ。
つまるところ僕は色オニであり、増えオニであり、高オニである。すなわち、僕とは遊びそのものである。
加えて、趣味と遊びには本質的な違いはないとされる。
要するに僕は趣味そのものである。
さらに言おう。
1938年、歴史学者ヨハン・ホイジンガは、自らの著書『ホモ・ルーデンス』において人間を「ホモ・ルーデンス=遊ぶ人」であると定義づけた。前述のように僕は遊びである。よってこの命題から、僕は人類そのものであると、そう言える
僕はおそらく、就職面接における「趣味はなんですか?」という問いに対して「はい、福山空、私自身です」と答えるだろう。また、こうも答えるだろう。「同時に、遊びとは福山空、私自身です。」と。
そして最後にこう付け加えるだろう
「全ての人類は福山空、私自身です。」
僕は就職に失敗するだろう。失敗するに違いない
コアラのマーチに畏怖する
京都市左京区にある、出町柳駅から少し歩いたアパートの一室に、レポートが全く進んでいない男がいる。3時間で2文字という驚異的な進捗を記録した男がいる。
何を隠そう、この僕である。
「頭上に投げたお菓子を5回連続で口キャッチできるまでレポートを始めない」という謎の使命を自らに与えてしまったが最後、頭上から落下してくるお菓子を口からこぼしては、1人ではしゃぐ可哀想な人間と化した。3ヶ月後、僕は21歳になる。
とはいうものの、謎のプライドが邪魔して途中棄権もしたくはない。成功の兆しすらないまま、ただただ時間だけが過ぎた。
しかし次の瞬間、僕は突然使命を投げ出したと思うと、ワードを立ち上げ、血相を変えてキーボードを叩き始めた。心の奥底で僅かに芽生えた恐怖心が、指数関数的に増長し、肉体までも喰い尽くそうとしたからだ。化物を撃退せんとキーを叩く。タタタタタタタタ。静まり返った室内に乾いた音が響き渡る。それはまるでマシンガンのように。
何を恐れているか。
それは
「コアラのマーチ」だ。
ただただ頭上で放物線を描いていた、コアラのマーチは、実は現代の人間を、制度を、社会を、嘲笑していたのだ。あんな微笑ましいお菓子が?と言いたい気持ちも分かる。しかし忘れてはいないだろう。一見優しそうな人間に限って、裏では想像もできないような一面を持ち合わせているのだ。僕も、高校受験でお世話になった塾講師にTwitterを監視されているのを知った時は、思わず顔が青ざめた。そして同時に、持っていたスティックをドラムに叩きつけた。この失望を、怒りを、何かにぶつけたい。そう感じた僕は、気がつくとブルーマンになっていた。そして今年5〜6月、僕はここ日本でワールドツアーを行う。
そういうわけで、コアラのマーチにも同じく裏の顔が存在するのだ。
……話はたべっ子どうぶつに遡る。
たべっ子どうぶつには、実は、その歴史の中でメンバーから外された動物が1種、たった1種だけ存在する。
もうお分かりだろう。
そう
コアラだ。
ユートピアの動物たちでさえも恐れ戦き、追放した動物、それがコアラである。
僕は、ぼんやりと
ただぼんやりとパッケージを眺めていた。
無表情で生気のないコアラは、どこか気味が悪い。
衝撃が走った。
コアラは、
この気持ちの悪いコアラは
日本人なのではないか
日本語方言・オタク・勤労者
日本人の特徴・イメージそのものではないか。
そして、パッケージに描かれる5匹のコアラは基本無表情で、群れている。
これは日本人に対する、一種の皮肉なのか
そうか
コアラが、
誰がどう見ても灰色のコアラが
黄色で描かれているのも
日本人が、黄色人種だからなのか
説明しろ
説明しろ、ロッテ
焦燥感に駆られた私は、公式ホームページに飛んだ。
なんということだ
このカラーリング
背景色の白と、ロッテのカラー、赤。
そういうことか
そういうことなのか
…だとしたら何だ
日本が何だと言うのだ
私は戦慄に襲われた。なんとか恐怖から逃れようと、パッケージを破り捨て、中身を取り出す。
再び衝撃が走った。
なんということだ
コアラの「黄色」が意味するのは
単に「黄色人種」だけではなかったのか
忘れていた
形状を
コアラのマーチの形状を
なんだ
まだ分からないのか
思い出せ
コアラのマーチの色形を
パッケージに描かれたコアラの数を
ロッテのロゴカラーを
黄色の星印
5
赤
そう
……いや、まだだ。
まだ終わらない。
思い出せ
ロッテの「赤」と、コアラの「黄」、オタクコアラを
そう
……最後に、コアラの主食である、ユーカリの花言葉は何だろうか?
「再生」
そうだ。
つまり、「コアラのマーチ」には、日本に「中国」や「ソ連」のような国家を、1つの社会主義国を、再興させようというイデオロギーが含まれていたのだ。
「コアラのマーチ」は、コアラ=日本に文字通り中国やソ連を重ねた、ロッテの陰謀であり、隠された通知書であったのだ。
……これ以上深入りすると、わが身にも危険が及んでしまう。最後にコアラからの声明文を掲載して、今回は終わることにする。
たべっ子どうぶつに畏怖する
大学図書館の地下1階、第1閲覧室で勉強道具を開げながらも、携帯をここ数時間ずっと触っている男がいる。わざわざ土曜に図書館へ来るという意識の高さを持ちながら一切勉強せず、1人でニヤニヤするという気色悪い時間の過ごし方で青春の貴重な2時間をドブに捨てた男がいる。
何を隠そう、この僕である。
「野菜生活を毎日飲んだら『野菜生活生活』になるんじゃね?」とか考えながらニヤニヤしていた。本当に気持ちが悪い。
しかし、僕は突然ニヤニヤを止めたかと思うと、メモ帳を開き、物凄い形相でフリック入力を始めた。心の中で僅かに芽生えた畏怖の念が、刹那のうちに急速成長し、5分を待たずして僕の脳内を支配したからだ。恐怖心を克服しようと一心不乱にキーボードを十字に切る。それはまるで神父の祈りのように。
何を恐れているか
それは
「たべっ子どうぶつ」だ。
ニヤニヤしながら食べていた、たべっ子どうぶつは、実は、社会を、文化を、そして人間を嘲笑していた。あんな微笑ましいお菓子が?と言いたい気持ちは分かる。しかし、一見優しそうな人間に限ってえげつない裏の顔がある。世の中とはそういうものなのだ。僕もバイト先の優しいオーナーがアウトレイジの現役住人だと知った時は膝から崩れ落ちた。そしてその衝撃で両膝の皿が8等分に割れた。だからみんなピザを切り分ける時は僕の膝の上で切ればキレイに8等分できるよ。
そういうわけで、たべっ子どうぶつにも裏の顔が存在するのだ。
僕は、ぼんやりと
ただぼんやりと、パッケージを見つめていた。
色とりどりの動物が、仲良く笑顔で並んでいる。
衝撃が走った。
どういうことだ
彼らの世界には
「弱肉強食」という概念は無いのか
社会的弱者と強者が共存し、手を取り合っている。なんという安寧なんだ。弱肉強食という、抗い難い、自然の摂理までもを乗り越えながら、お互いを尊重し、多様な価値観を認め合っている。ここに描かれているのは、そんな寛大な「心」を持った動物たちの生き様なのだ。
それに比べて人間はどうだ。富・権力・名声・地位・性。あらゆる欲望に打ち勝つことができる人間など恐らく誰1人としていないだろう。
欲望に惑わされず、そして価値観に順序をつけず、お互いを認め合う。これは、歴史の中で絶えず戦争や紛争を繰り返してきた人類に対する、彼らなりの皮肉なのだろうか。
皮肉
ビスケットの動物が46種類なのも
皮肉なのか
46
それはヒトの染色体数
奴らは、動物たちは
限りなく人類に近づこうとしているのか
違う
奴らは自分たちが格下だとは思っていない
配合されている栄養素を見てほしい。
骨を作るカルシウム、そして脳を活性化するDHA。
人類は骨無しであると、人類の頭脳はまだまだ未熟であると、そういうことなのか
そしてその表示をキリンに担わせるとは
動物たちは低俗な人類を「見下し」ており、人間知能が追いつくのを「首を長くして待っている」とでも言うのか
てか何なんだ
こいつ
こいつの形のビスケット無いじゃないか
人類を煽るためだけにパッケージに登場しているというのか
なんと
なんという屈辱
本当に人類を馬鹿にしている
これは
このお菓子はいったい何なんだ
あらゆるものが怖くなってきた
……ギンビスは
ギンビスという会社はどうなんだ
そこにも意味はあるのか
指の震えが止まらないまま検索すると、ギンビスの企業理念なるものがヒットした。
“ギンビスは、常に最高の真心をこめて、世界中の人々に美味しいお菓子をお届けするために「3つのI (国際性-International 独創性-Independent 教育性-Instructive-)」という企業理念を掲げています。”
なんという
なんということだ
3つのI
I + I + I = III
まだ分からないのか
思い出せ
私は、たべっ子どうぶつに描かれる動物は全46種類である、と言った
そして46とはすなわちヒトの染色体数であると、そう言った
話はそこで終わっていない。
ヒトの染色体は “23対” 46本である。
23 23
ここで問おう
アルファベットの23番目は何だろうか
そう
W
46種類 3つのI
すなわち、
23 23 I I I
WWIII
これは
ただのお菓子、
ただの動物ビスケットではない。
動物達が、人間を排除した世界を、真に平和なユートピアを、「第三次世界大戦」によって作ろうとしている。たべっ子どうぶつは、その陰謀を示唆する告示書であり、動物たちの宣戦布告だったのだ。
人間の子孫を絶やそうとする動物達、そう
「たべっ『子』どうぶつ」として…
ウチのサークル
僕が属するサークルはそう、""広告研究会""だ。
これを聞いた友達の反応は、2種類に分かれる。
一種類は「え?」、もう一種類は「は?」だ。
分からないのも無理はない。確かに「広告研究会」の字面を見てると、名前だけの飲みサー感がすごい。まぁそこは各自公式ホームページ(http://dkouken.net/)を見てくれ。略して「広研」、素敵なサークルだ。
話を戻す。
実は、ウチのサークルの1回生は、男女交流がマジでない。グループは男女それぞれで数個存在しており、同性でのグループ間交流はあるものの、男女の間にはとてつもなく高くて強固な、それはそれは高くて強固な壁が立ちはだかっている。超大型巨人でも傷一つつけることは出来ないだろう。あるいは、お弁当の中仕切りだ。俺たち白米は、キラキラした惣菜たちと目を合わせることすら許されないのか。
それに比べて他サークルはどうだ。夏休み中、男女仲良く「ボウリング来た卍」「スポッチャ来た卍」「カラオケ来た卍」という具合だ。完全にラウンドワンのカモと化している。玉を転がしているつもりだろうが、実はラウンドワンの掌の上で転がされているだけなのに。
と、強がってみるものの、正直羨ましい。かなりの妬ましさがある。
まぁそうは言うが、明後日から授業が始まってしまう。今年の夏休みは諦めるか。先輩達も秋以降から男女仲良くなったって言ってたし……と、思ったところ、である。と、こ、ろ、である。
同サークルの男子3人が、女子3人とユニバに行っているストーリーを上げていたのだ。
マジか
正直、俺はそう思った。敗北感に打ちひしがれた。
こうも簡単に水面下で計画を練られ、こうも簡単に抜けがけされたのだ。さすが日本男子、ninjaの血が流れているだけある。
一方で、俺の中のメロスが激怒した。必ず、かの邪智暴虐の友を除かなければならぬ。俺の中のルロイ修道士は両手の人差し指をせわしく交差させて打ちつけているし、俺の中のエーミールも「そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな。」と軽蔑の眼差しを向けている。俺の中の懐かし教科書オールスターズもさすがにご立腹である。
しかし、こうも思った。
よくやった、と。
1.7メートルにも満たない巨人3人が、あの鉄壁を、そびえ立つあの鉄壁を、ぶち壊したのだ。
野蛮人しかいなかったこの氷河期から、一面白米のこの銀世界から、俺たちを解放したのだ。
これは1人の人間にとっては小さな1歩だが、広研男子にとっては偉大な飛躍である。
誰もいない部屋で、1人で、アームストロング船長みたいなセリフを高らかに宣言し、僕は安心して眠りについた。
ちなみに、僕には交流の予定は一切無い。
第三反抗期
絶望のテスト前週間、皆さんいかがお過ごしだろうか。
さすがに僕もそろそろ勉強しないと、と思いマクドに来たが、こうしてブログが更新されているということは、そう、お察しの通りである。
そもそも、パソコンを持ち込んでいる時点でブログを書く気に満ち満ちている。完全に故意犯。こうなるのが分かっていた上での犯行です。ブログ書きに来ました。ごめんなさい。
実は奇遇にも、「犯行」と同音異義の「反抗」が今回のブログのテーマである。
大学で社会学を学ぶ身として、反抗期の実態について様々な観点から考察していきたいけどそんなことより話の運び方めっちゃオシャレやん。ブログ界のユナイテッドアローズ。#お洒落さんと繋がりたい #美男美女と繋がりたい #らぶりつで気になった人お迎え #1mmでもいいなと思った人RT
暑さで思考回路がショートしてしまったので、話を元に戻す。
皆さんは中高生の頃に反抗期というものを経験したことがあるだろうか?
最近の調査では「反抗期を経験していない」という学生は全体のおよそ4割にのぼるそうだ。
反抗期は無意味で迷惑なものだと思われがちである。
しかし実際は、反抗期という時期は、人格形成に大きく関与する非常に重要な時期であり、反抗期を経験しなかった諸君は人生の4割を損していると言っても過言ではない。
「え~人生の4割損してるよ(笑) かわいそう~」
これは、「セロリが苦手だ」と言った僕がかつて女子から浴びせられた言葉だ。
あの屈辱は何年経っても忘れられない。セロリが食べられないだけで人生の4割を全否定されたのである。
じゃがいもや玉ねぎ、アスパラガスなどのスター野菜ならまだしも、セロリである。
検索候補の1番上を山崎まさよしに奪われている、あのセロリである。こいつアイデンティティ大丈夫か。
俺よりセロリの方がよっぽど可哀想だし、さらに言えばそのセロリが人生の4割を占めてるお前が1番可哀想やぞ。
話は戻るが、一般的に言われているように人間には二段階の反抗期がある。
第一反抗期は幼児期に訪れる。これは、親の指示に反抗したり強情を張ったりする時期のことで、いわゆる「イヤイヤ期」である。
一方、第二反抗期は青年期の初めないしそれに先立った時期に訪れる。これは、自我感情が意識された結果、ふさぎ込んだり逆らって乱暴したりすることがある時期である。
第一反抗期も第二反抗期も経験し、僕はハタチになった。そして現在、僕は第三反抗期の真っ只中である。
第三反抗期とは、あらゆる風潮に対して反抗したくなる時期のことだ。多分。
例えば、『出てきた料理を食前に撮影する』という現代の文化がある。僕はあれがマジで嫌いだ。その写真本当に一年後見直すのか?あ?
僕はこれに反抗して、食事後の写真をただひたすら撮り続けていた時期がある。皮肉にも『インスタ映え』と命名されたフォルダの中には百枚あまりもの食後写真が並んでいた。
また、『インスタ映え』を銘打ったスイーツ店に単独で乗り込んで、周りがケータイでパシャパシャと撮影会を開催している中、1人で黙々とパンケーキを食べたこともある。
今になって考えてみると完全にサイコパスの行動だが、この当時は浪人真っただ中であり、精神的に不安定だったのかもしれない。
しかし、安心してほしい。現在の僕は、料理の写真こそ撮らないものの、こういった過激派デモは一切行っていない。
もし万が一、僕が今後SNSに食後写真をアップすることがあれば、恐らくもう僕は人間ではなくなっている。皆を巻き込んでしまう前に殺してほしい。
あと、僕はチヤホヤされる美男美女があまり好きではない。
肩で風を切って歩く美男美女に言いたい。塩基配列ちょっと違うだけでイキるなよ。
美男美女は自撮りをSNSにアップしても許されるのに、ブスブサイクがちょっと自撮りしたらネットで袋叩きにされるという風潮もマジで嫌い。どっちも気持ち悪いからな。
現代社会においては性差別、人種差別など多様な差別の撤廃が強く主張されているが、僕は容貌差別も撤廃すべき差別の一つだと思う。
生まれつきの性、生まれつきの人種、生まれつきの容貌。
性も人種も容貌も自己に決定権はなく、自己の力だけではどうにもならない。
男同士で話していると、同じ共同体内の女子についての話題は当然出てくるが、どの共同体でも、いわゆる「可愛い」女子が話題の9割を占める。
僕はこれが本当に苦手だ。
そもそも、どれほど加齢に反抗しようが、齢を重ねるにつれ人の美貌は朽ちていくものだ。
僕はそんな一時的なものに縋るよりも、老いてなお色褪せることのない内面にその人の魅力を見出したい。
来世は何に生まれるか分からないけど、何に生まれてもいい。容貌なんてどうでもいい。きっと生まれ変わってもこの考え方は変わらないと思う。
あ、やっぱセロリ以外に生まれたいです。
それでは有意義なテスト週間をお過ごしください。
テスト余裕すぎる
レポートがやばい。試験がやばい。
周りの同級生がもがき、苦しんでいる。
醜い。圧倒的に醜い。
日頃から勉強しなかったツケが回ってきたのだろう。ただの自業自得だ。全くコイツらは大学に何をしに来ているのだろうか。
そんな愚かな同級生と対極をなすのはそう、俺である。焦りの感情など微塵もない。
というのも、日頃から真剣に受講してその骨子を理解し、復習によって知識を会得していたため、レポートも8割方完成したからだ
…という訳ではない。
僕にもツケは回ってきている。しかし、焦らない。
さっき対極と言ったが、彼らと違って勉強しているという意味ではない。彼らと違って焦らないという意味で対極にいるのだ。
三日前から勉強を始め、徹夜を重ねてテストに臨む。これが僕のスタンダードだ。しかも中1から。だから焦らない。場数が違うのである。
それゆえの、この風格。
レポート課題してるつもりが、部屋片付けちゃってた?
甘い。
俺ぐらいのレベルになると、レポート課題してるつもりが、部屋を片付け、BLEACH 1〜74巻を読破し、ブログを書き始めちゃってたのだ。
次元が違う。
テスト勉強してるつもりが、ネットサーフィンしちゃってた?
俺ぐらいのレベルになると、テスト勉強始めるつもりが、ネットサーフィンに始まりネットサーフィンに終わっちゃっていたのだ。始めてすらない。
ただ、僕からすればネットサーフィンそのものはガキの遊びであるように感じる。
大学生から見た「花いちもんめ」みたいな。前後運動しながら相手チームの人間をジャンケンで奪うという謎の遊び。明らかな時間の無駄。俺あの遊びやりながら虚無を感じてたからね。小1で。虚無。あ、相手チームから全然指名されなかったトラウマ思い出してきたからちょっとこの話やめよう。
話を戻すと、僕レベルのエキスパートはネットサーフィンは二の次で広告に価値を見出すようになる。
普通は煩わしいと感じるアプリ広告で遊ぶ。
ファイナルファンタジーとかもう無双だからね。
もうこの広告で遊ぶためだけにサイト出たり入ったりするからね。
こんな感じでもテストは何とかなると思ってる。末期の幻想。
そう、ファイナルファンタジーだけにね。